| 其の拾五『三途の川を渡って・・・』の巻 |
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夜光堂の芝居で何度も三途の川を渡っているオイラであるが(笑)、実は一度だけ三途の川らしきものを渡ったことがある。 子どもの頃に見た夢の中での話だ。 辺り一面、牛乳でもぶちまけたかのような真っ白い靄に包まれていた。 ギイコ・・・ギイコ・・・と何かが軋むような音がする。 気が付くと、オイラは舟にのっていた。時代劇に出てくるような木で出来た小さな小舟である。ギイコ・・・ギイコ・・・船頭さんが櫂を動かす音がするものの、何故かその姿は見えない。ギイコ・・・ギイコ・・・オイラの周りには真っ白な着物を着た、ヤケに顔色の青白い人たちがじっと身じろぎもせずに正座している。その顔に何故か表情はなく、一様に虚ろな目をして・・・ギイコ・・・ギイコ・・・。ふと水面に目を落とすと、その水も又、温泉の素を溶かし混んだような乳白色だった。 ギイコ・・・ギイコ・・・。 生温かい真っ白な霧の中を、舟は進んでいく。 白い着物の人たちは、誰一人として口をきかない。姿の見えない船頭さんが動かす櫂の音だけが、霧の中に響いていた。 ギイコ・・・ギイコ・・・。 しばらくして舟は、霧の中に突然現れた岸にその体を寄せた。舟がギィと音をたてて制止すると、白い着物を纏った乗客達が一斉にすう・・と立ち上がった。つられるようにしてオイラも立ち上がる。 今まで白一色に覆われていた視界の隅に、土の焦げ茶色とそこからパサパサと生えた草の緑色が映った。ただそれは生気に満ちたものではなく、霧の湿気に触れてじっとりと湿っていた・・・。 川と陸地の間には簀の子のような木の板が渡されていて、真っ白な着物を人たちは着物と同じ色の真っ白な足袋と真っ白な鼻緒の草履を履いた足で、そこを渡って行く。キシ・・・キシ・・・と、簀の子が鳴る幽かな音がした。誰も、口をきかない。 オイラが舟を下りる番が来た。 川と簀の子の隙間はわずかに四センチほど。それを跨いで、オイラは靴底を簀の子に乗せた。 たぷん・・・・・。 あっと思った時には川の中に落ちていた。 咄嗟に、ああ、川と簀の子との隙間から落ちたのだ、と思った。 オイラは何故かたった四センチの隙間を跨ぐことが出来なかったのだ。 ごぼごぼと、耳元で水の揺れる音がした。 何かに襟首を引っ張られるように、すうっと川の下へ下へとカラダが沈んでいく。 遥か天となった川面で、あの白い人たちが舟から簀の子を跨いでいくのが見える。ああ、と思わずオイラは両手を前へ伸ばすが、乳白色の水があんまり気持ちよく身体に絡みつくのでそのうちどうでもよくなってしまった。 不思議にその水の中は苦しくなく、そして赤ちゃんに飲ませるミルクのように生温かった・・・。 と、いうわけなのだ。 夢と言えば夢。感受性の強い子どもらしい、日本昔話のような三途の川の夢である。しかし余程インパクトの強い夢だったのだろう。今でもしっかりとその夢の感触を辿ることが出来る。ことに思い出すのは水に落ちた後のことで、身体に馴染む温かい水の感触と、舟を下りる人たちの草履の裏とヒラヒラと揺れる着物の裾なんかは、脳の奥のほうに焼き付いて不思議に忘れられない。ニワカ心理学者ナナウミが見るに、この乳白色の水というのはハハの羊水ではないかと思うのだが、そこんとこどうなんスカ?世の中の心理学者の皆様。当たってたらなんか美味しいモノでも奢って下さい。(何故だ。) もうひとつ、不思議な話を。 それは七海明美がお尻まで垂れるおさげも愛らしい幼女時代(自分で言うな、自分で!)のことだ。これはオイラまったく覚えがないのだが、眠った後、毎晩同じ時間にムクリと起きあがり、父とハハのもとへヒタヒタ歩いていくと一言、 「ごはん」 と、言うのだそうだ。 晩飯などたらふく食っている。腹など減っているわけないのだが、何を聞いてもただひたすら「ごはん」と繰り返すだけ。不審に思いながらも白飯を差し出すと、それを一口食べて満足そうにニッコリ笑い、寝床に帰っていくのだという。 不思議なことにその子は白飯しか口にしない。他のものでは駄目なのだ。 そんなワケのわからん行動が一年以上続いたという。 「温泉に泊まりに行くときなんかはね、ちゃんと旅館の人に言ってお食事が終わった後に茶碗一杯の白飯をもらっておいたのよ。(笑)」(ハハ・七海久栄談) (笑)って、笑ってる場合なのか、ハハよ!明らかに『変』な娘の行動に、一年も付き合っていたこの人達のほうが怖いわい!う〜ん、こりゃ農民やね。農民の霊やね!(笑)飢饉で死んだ農村の娘の霊がとり憑いておったのじゃね!自分ちで作った米は全部年貢で取り上げられてしまって、毎日麦とか粟とかヒエとか食って細々と生きてきたんだけど、天保の大飢饉とかの直撃を受けてとうとうお迎えが来てしまったんじゃね!だから白いおまんましか食わないんじゃね!ある意味贅沢な奴じゃね! うを〜、そうだったのかぁ〜、オイラは飢饉で死んだ農村の娘の霊にとり憑かれておったのだねぇ〜・・・か、どうかはともかくとして、まあ、もしそんなことがあるのだとしたら、なかなかウチの両親もやるもんだ!と思う。 例えば自分が白飯をたらふく食えないで死んだ子どもだとして、毎晩おっとうとおっかあ(「おっとう、おっかあ」っていうのは昔話に出てくるお父さんとお母さんの呼び方だよ。主に田舎の農民の子どもなんかがこんな風に呼ぶんだ!)が白いおまんま用意してニコニコ待っててくれたらなんか嬉しいじゃないか。毎日ひとくちずつ白飯食って、ほんわかして、一年もしたら「もういいかな〜」ってそりゃあ思うだろうね。ふあ〜って成仏するやろね。いやあ、良いことしたね、七海家!(笑) 死後の世界なんつうもんはオイラ自分に関しては全然信じてないわけで、その時が来たら電池が切れた電化製品みたいにすうっと視界が暗くなって何もなくなって終わるんだろうなと思っている。小さい頃はそれがとても怖くて、夜中に飛び起きることがあった。見かけによらず繊細な子どもやん、ワシ!自分に終わりがあること、自分の意識が、今こうして見ているもの、触っているもの、考えていること、そういうものがいつかは必ず途切れるんだっていうことがもの凄く怖い気がする。今でも体調や心理状態が悪いと、小さい頃感じた恐怖がぐおおおおお〜っとせり上がって飛び起きることがあったりもするのだ。見かけによらず繊細な大人やん、ワシ!(もうエエっちゅうの!)自分に終わりがあるなんてこたぁやっぱり信じたくないねぇ。天国でぬくぬくやってたい、なんてえのはみんな生きてる人間の考えることだからねぇ。やっぱり人は永遠を信じていたいんだな。 ベジータがドラゴンボール集める理由が、なんとなくオイラには解るのです。 (この前の週、駅伝で『龍騎』潰れてガッカリさ。考えてみればあと3ヶ月くらいで終わっちまうんだねぇ。こういうハマリモノの「終わり」ってのもかなり悲しくて、どんな終わり方をするにせよ最終回の後しばらく凹むやろね、俺。まあ、いよいよもってDVD発売が決定したわけですが・・・っていうかビデオは!?ビデオ発売の情報が一向に入ってこないのは何故なんじゃ〜!青レンジャ〜!(関係ネエって!)くそお、小学生のお年玉をちょろまかして(←コラコラ!)DVD買ってやら〜!うるあ〜!ヤケはいかんぞ、ヤケは。) |