| 其之壱百七『白い犬のはなし』の巻 |
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僕は日々色々な出来事になんだかもうすっかり疲れてしまったので、独りホテホテと旅に出ることにした。 愛用の自転車に跨り、ペダルにガッと足を掛ける。 特にどこへ行くという目的もなく、思い立った方向に向かってチャリンコを漕ぎ出して行く。ロ〜ロ〜ロ〜ロ〜ヤボ〜ト。 その日は日射しの強い日であった。 イカロスだったらアッと云う間に昇天だ。 しかし僕のチャリンコはキコキコと爽快に風を裂いていく。 気が付くと僕の隣を真っ白な犬がハフハフ云いながら走っていた。 野良犬だろうか。首輪も何も身につけていないその犬は、外で暮らしているとは到底思えぬ程にただただ真っ白だった。 それを見ていると、なんだか真っ白な雪の中を走っているようで、なんだかとても気持ちよかった。 そして気が付けば、雪原にいた。 ビョウビョウと吹き付ける冷たい風の中に、雪が時折混じって流れてくる。 足下でいつの間にか真っ黒になった犬が「ワホ!」と吠えた。 振り返ればどこへ続いているかも知れぬ雪の坂道が続いている。 僕は自転車を反転させ、息をひとつ吸い込んでから、ペダルを踏み出した。 シャアアアアアアアアアア・・・・と、自転車が雪を斬る音が耳に響く。 僕の前には雪が嬉しいのか、やたらとハフハフ云いながら走る黒い犬がいて、時折僕を振り返ってはまるで目印のように雪の中に立ってウヘウヘと笑って見せるのだった。 真っ黒な犬を追って走っているうちに、僕はいつしか真っ黒な闇の中をひた走っていた。 不思議なことに僕はこの道がどこまでも真っ直ぐ続いていることを知っている。 そして決して立ち止まってはいけないことも。 僕の背後からオレンジ色だの、青色だの、蛍光色の光の筋が不思議な形を描いては流れ、高速で僕を追い越していった。 残像を残しながら走り去っていく光の筋は、まるでAKIRAの世界だ。 休むことなくペダルを漕ぎながら、あの犬を探して周りに目を走らせたが、高速で移動する僕の目には、もうあの犬の姿を見つけることは出来なかった。 もう、どれくらいこの道を走っているのだろうか。 限りない闇の中に置かれていると、もうなんだか感覚が曖昧になってくる。 果たして僕は前に進んでいるんだろうか。 ペダルを漕いでいるこの足は本物なんだろうか。 自分が自分である感覚すらもわからない。 自分を追い越す青い光を見ながら、僕はぼんやり考える。 確か萩尾望都にこんな話があった。 床にこぼしたコーヒーの染みの話だったな・・・。 何日もかけて煮込んでいるスープのように、だんだんと脳味噌が溶けていくのがわかる。 だんだん形のなくなっていく野菜のように、僕もこの世界の一つになって、そして幾筋も走る光の一つとなって、この心地よい闇の中を泳ぐモノになっていくのだ。 最後に、ふとお母さんの作ったカレーが食べたいなと思ったけれど、僕のモノを考える場所はもうすっかりカレーのようにドロドロで、僕はもうすぐその曖昧な感覚にのまれて行くはずだ。 僕の持つ顔も体も脳味噌も感覚も、全部全部溶けていくはずだ。 それは眠りに落ちる瞬間に似ている。 もう起きなくていいだけ、眠りよりも幸せだ。 たぷたぷと、頭蓋骨の中で脳味噌が液体に変わる音がする。 もうすぐ僕は溶けきるだろう。 光の筋になるだろう。 そしてそれは、幸福だろう・・・。 「ワンワン!!」 その時、背後で大きな音がした。 あの犬だ、と思った。 途端に僕の脳味噌は形を成し、僕の目にはペダルを漕ぐ自分の足が見えた。 犬が、僕の横を走っていた。 犬は最初に会った時のように白い色をしていたが、その大部分は何故かどす黒い赤に染まっていた。 その真っ青な目は真っ直ぐに闇の中を見据え、足は確実に前に向かっていた。 「僕らはどこへ行くんだろうね・・・」 そう話しかけたつもりだったが、しばらく感覚を失っていた僕の喉は、ちっともうまく機能してくれず、ただ「クァ」と鳴るだけだった。 僕は犬と走った。 いつしか闇は消え、真っ白な霧が辺りに立ちこめていた。 真っ白な犬は霧の中に溶け、ただタカタッタカタッという足音だけが僕の頭の中に響き、道を教えてくれる。 霧はゆるりと温かく、僕の頬にまとわりつく。 ふと、頭の中で犬の足音がタン!と一つ、大きく響き・・・。 そして僕は目を醒ました。 真っ白な天井がそこにあった。 指先からジワジワと血が通るように感覚が戻り、そしてズキズキと痛み出す。 僕は実は自転車なんかには乗っていなくて、僕の家の小さなお風呂場の中で真っ赤な液体を生温いお湯に流し出しながら眠っていたのだと、後でお医者が教えてくれた。 不思議なことには、僕がお風呂場でトロトロと眠っていたその時間、僕の友達のところに僕の声で電話があって、僕を助けるように云った、という話だ。 僕は長い旅に出ていたようだ。 (一日中寝たいなぁ〜) |