其之壱百獅拾糾『僕と小豆洗い』の巻



 よ、『妖怪大戦争』が見たい・・・。
 しかしこの夏休み真っ直中に、妖怪好きが一人ホレヨレと見に行ったところで「ギャ〜」だ「ニャ〜」だと叫ぶ(であろう)ガキどもにキレて脳天にカカトの一発でも喰らわせ、番屋にシヨシヨしょっ引かれるのが関の山。
 ここはグッと堪えてガキの夏休みが終わるのを待とうではないか。
 いやそれよりも。
 DVDを待ち、家のTVで止めたり巻いたりしながら妖怪の細かいディテールを鑑賞したいものである。
 ああ、妖怪・・・ッ!!(悶)
 最も好きな妖怪はと問われれば、胸を張って答えよう。
 それは『小豆洗い』である、と。
 この妖怪、文字通りシャキシャキシャキシャキ小豆を洗う。
 シャキシャキシャキシャキ・・・シャキシャキシャキシャキ・・・・小豆を洗う。
 シャキシャキシャキシャキ・・・洗うだけである。
 洗うだけなんである。
 ココだ。
 ココを思う度に、僕は小豆洗いが愛おしくて仕方なくなる。
 ああ、小豆洗い・・ッ!!(悶)
 小豆洗いは人が「あ、小豆洗いがおるな」と思うその瞬間に現れて、シャキシャキシャキシャキ小豆を洗う。
 そして人の意識が逸れた瞬間に、ふいと居なくなる。
 たったそれだけの存在なのだ。
 人が小豆洗いを意識していないその間、小豆洗いは何をしているのか?
 「存在していない」のだ。
 これは相当凄いことである。
 まさに小豆洗いが妖怪である証だ。
 人間ならば、たとえ誰に意識されずとも、飯を喰い、屁を垂れ、便所に行き、風呂に入って、屁を垂れて寝る。
 そこに暮らしがある。
 小豆洗いには暮らしがない。
 人が「おるな」と思った瞬間に現れて、人の意識が逸れた瞬間にふいと居なくなる。
 人の世界から居なくなる。
 妖怪だ。
 人が小豆を洗う時、そこにはなんらかの意志が存在する。
 例えば、あんころ餅を喰らうため、病気のおばばに南瓜に小豆まぶしたものを喰わせるため、嫌いなアンチクショウの口に生小豆を噛ませてやるため・・・。そこには小豆を洗う人それぞれの「喜び」や「悲しみ」「憎しみ」が存在する。
 では小豆洗いは一体何を考えて小豆を研いでいるのか・・・?
 餅にまぶしたいわけではない。
 子どもに投げつけようと思っているわけでもない。
 人が「小豆洗いが小豆を洗っているな」と思うから、小豆洗いは小豆を洗うのだ。
 つまりは何も考えていない。
 「考える」という表現すら、小豆洗いにとっては必要ない。
 「無」だ。
 僕が小豆洗いに惹かれるのはすなわち、その「無」の部分に他ならない。
 小豆洗いが「存在しない」無の時間。
 小豆洗いが「小豆を洗う」無の時間。
 小豆洗いは「無」で構成されているにも関わらず、何故かそこに存在する。
 人が「小豆洗いがおるな」と思う瞬間に存在し、人が「小豆洗いがあるな=小豆洗いが小豆を洗ってるんだな」と思ったから小豆を洗い、そして人が小豆洗いを意識から追い出したと同時に人の世から消える。
 僕が「あ、小豆洗いがおる」と思ったら、そこには確かに小豆洗いが存在し、小豆をシャキシャキ洗っている。
 僕が続いて「あ〜、お腹空いたな」と思ったら、小豆洗いは消えるのだ。
 これは凄い。
 何がどう凄いのか、僕のつたない筆では表現出来ないのが口惜しいが、こりゃもう相当凄いことに他ならないのである。
 僕は特にこう云った「え?じゃあ普段は何されてるんですか?」妖怪が大変好きで、いつの間にかペカペカになっている風呂場を見て「あ〜、夕べアカ舐め来てたんだ〜→この瞬間にアカ舐めは夕べ家の風呂場に存在したことになる」だの、日に日に広がる天井のシミを見て「天井舐めが来て舐めとるんやね〜→と思った瞬間に天井舐めが存在・・・って、もうエエか」だのを考えるだに、目をショボショボさせて喜んでしまうのだ。
 勉強されている方に云わせたら、間違っていることもたくさんあるのだろうが、とりあえず僕の妖怪・小豆洗いに対する愛はすなわちそんなところから来ている。
 僕が妖怪を好きなのは、ソイツらが人間でなく妖怪だから。
 妖怪の持つ「無」は、僕が人として生きているうちには絶対に持つこと叶わず。
 だからこそ僕は、妖怪が好きなのだ。


(人によっては「無」の境地を得られる方も、この世にはおるようです。僕はそうはなれそうにもないので、歳と共に一枚ずつぺろりぺろりと人の皮を脱ぎ捨てて、最終的に妖怪になりたいと思います。・・・しかし何百年かかるやろうか・・・!保て!寿命!!)



A Theatrical Campany yakoudou