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安達ヶ原 ウチでは包丁を研ぐのはダンナさんの仕事だ。 何でも、学生時代に金物屋さんでバイトをしていたときに覚えた技らしい。 大抵は、翌日に仕事のない金曜の夜。ダンナさんはキッチンで包丁を研いでくれる。 私はそれをリビングのソファーでお茶を飲みながら眺めるのが好きだ。 話しかけると『集中力が途切れる!』と本気で怒り出すので(ウチのダンナさんは割と子供っぽいところがあるのだ)、黙って眺める。 シャーコ、シャーコ、シャーコ・・・・。 包丁の刃が砥石の上を滑る、耳にくすぐったいような音だけが淡々と流れる時間。 ああ、贅沢だなぁ、幸せだなぁと思う瞬間だ。 私たちの間には、まだ子供はいない。 私は結婚と同時に仕事を辞めた専業主婦なので、状況的には、いつでも子育てに突入できるのだが、何となく「子供はしばらく作らないでおこうね」と云うのが私たちの間の共通認識になっている。 『奥さんがもっと大人になってからじゃないと、俺一人で子供を二人見なきゃならないからね』とダンナさんは言う。 シャーコ、シャーコ、シャーコ・・・・。 ふいに思い立って、リビングの電気を消し、キッチンとを隔てる扉を閉じてみる。 ドアに嵌められた磨りガラスに、包丁を研ぐダンナさんの姿が影絵みたいに浮び上がって、子供の頃に読んだ昔話を思い出す。 山道に迷った旅人が、疲れ果てて一軒のボロ家に辿り着く。そこには、粗末な身なりの老婆が一人で暮らしていて、一晩の宿を請う旅人を快く向かい入れ、手厚くもてなしてくれる。道中の疲れもあり、早々に眠りにつく旅人だったが、ふと、異様な気配に気が付き目を覚ます。障子の向こうで包丁を研ぐ老婆のシルエット。頭部には2本の角が生え、大きく裂けた口からは鋭い牙が・・・。思わず息をのむ旅人。それに気付いた老婆が、ゆ〜っくり振り返って・・・。 ・・・で、どうなったんだっけ? 旅人はお婆さんに食べられてしまったんだっけ? それとも上手いこと逃げたんだっけ? ありゃ、肝心のオチを忘れてしまっている。 まぁ、いい。何と言っても子供心にインパクトがあったのは、障子に映る鬼のシルエットの不気味さだったのだ。 あの絵本読んでからしばらく、一人でトイレに行けなかったもんなぁ。ドアの向こうにお婆さんがいたら、どうしようって思ってさぁ・・・。 ピルル、ピルル、ピルルルル!!! 静寂を切り裂く電子音。思わずビクッとなる。充電中のダンナさんの携帯だ。 柔らかさの欠片もないその音は、まるで小さな生き物の悲鳴のようだ。 扉の向こうから濡れた手もそのままにダンナさんが、飛び出してきた。真っ暗な部屋に一瞬戸惑った様子を見せつつ、素早く泣き叫ぶ携帯を手に取ると、「もしもし?」と言いながらサッシを開けてベランダへと出て行く。 私は小さく溜息をついてから立ち上がり、部屋の電気をつけた。 そのままキッチンに向かい、研がれたばかりの包丁を手に取ってみる。ダンナさんが研いだあとの包丁は、何でも本当に良く切れる。 多分・・・。人の身体もスルリと切れると思う。 最後にはウチに帰ってきてくれるというなら、別にいい。深夜に近いこんな時間に電話をかけてくるのは一体誰なのか、どうして、わざわざ肌寒いベランダに出て話すのか、追求しないでおいてあげよう。 でも・・・。 もし、もうこのウチには帰ってこないと言い出したら。 私は、ためらいなく、この刃をダンナさんの身体に沈めるつもりでいる。 そのために、私は包丁の切れ味が少しでも鈍ったら、すぐにダンナさんに研いで貰うようにしている。 だって、ちょっとでも引っかかりがあったりしたら・・・痛くて可哀相だものね? 彼は、自分の息の根を止めるかもしれない道具を、自分の手で手入れしているのだ。 ベランダから戻ってきたダンナさんが、申し訳なさそうな顔で 「あのさ、明日、急ぎの仕事が入っちゃって会社に行かなくちゃならなくなってさ・・・」 と不自然な早口で喋り出すのに、私は微笑んでうなずいてみせる。 まるで、老婆が旅人を暖かく迎え入れるように。 |